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コラム5:深めるベトナム5

桃木至朗(日越大学教員・JICA専門家)

☆以下はすべて筆者独自の見解であり、日越大学を代表するものではありません。

 

 「VJUスクエア」最初のコラムの最終回です。今後も日越関係やベトナムのこと、日本のことについていろいろ書くつもりですが(他のメンバーのコラムや記事も、もちろん掲載されるはずです)、ここでは筆者個人がめざす相互理解の深さや広さについて書いておきたいと思います。「難しすぎる」などと言わずに、むしろ面白がってお読みいただければ幸いです。それは、日越大学のような相互理解と研究(とくにベトナムでの日本理解・日本研究)の先端を行くべき機関だけでなく、ベトナムに長期滞在される方、日本でベトナム人と深くつきあおうとする方にも求められるものだと信じます。

 

1.ベトナムの食べ物はフォーと生春巻きだけか?

ひとことで言えばそれは「ステレオタイプ」を一歩、二歩深めたり広げたりすることです。日本の皆さんは「桜の花、フジヤマ、ゲイシャ」「寿司、てんぷら、おしまい」みたいな日本イメージにどっぷりつかった外国人をみたらうれしいですか? 同じことですが、「ベトナム戦争のことしか話さない日本人(とくに中高齢者)」について内心でうんざりしているベトナム人はたくさんいます。ところが日本もベトナムも、教育やマスコミは「イタリアといえばパスタ」「韓国といえばキムチ」みたいなステレオタイプが大好きですね。それで国際交流の現場で、相手が不快に思ったり自分が必要以上に驚いたりすることにつながりやすいですね。ベトナム人は(陰では悪口をいっても)外国人を含むよそ者や少数派の振る舞いに寛容だと思いますが、日本ではいろいろな外国人についてよく知らないままで、日本式でない振る舞いをとがめたりいじめたりすることが少なくないですね。

 ベトナムの食べ物の話は、ベトナム旅行しなくても日本国内でハイレベルかつ多様なベトナム料理が楽しめるようになった今日では、もうあまり必要がありませんね。フォー以外に実に多彩な麺料理があることなど、とっくご存じの方も珍しくないですね。朝食は麺類ばかりということもなく、世界で有名になったバインミー(バゲットに似たパンに具をはさんだもの)もあればソイ(おこわ)やチャオ(おかゆ)、バインバオ(豚まん)もあるという具合で、実に多様ですね。昔はベトナムの外食は不潔で即下痢をする、氷を飲むなどもってのほか、と思い込む日本人もよくいましたが(背景には世界でまれな日本人の清潔好きという、それ自体がとても興味深い文化的特質があるのですが)、今はそんなこともないでしょうね。筆者自身は氷の入った飲み物を注文してまわりの日本人に心配された際(夏場)には、「ここで氷を飲んで下痢する確率は、氷をやめて熱中症で倒れる確率より低い」と主張することにしています。

ベトナム人と深く付き合っている日本の皆さんには、むしろ日本の食生活について正確・適切な説明をする能力の方が必要かもしれません。たとえばベトナムにあまりない薄くスライスした肉や三枚におろした魚は、なぜ日本で普及したか。それには日越の包丁(もっといえば古くからの製鉄技術→日本刀の優秀さともつながる)とまな板の違いを理解する必要がありますよね。ラーメンは古くからの伝統食だという理解がベトナムで広がっているかもしれないと最近気づいたのですが、もともとうどん・そば党の筆者としては、それは断固是正しなければなりません(笑い)。

 また話がそれますが、日本の大学や会社にベトナム(や中国)のお客さんが昼間来て、弁当を出す時、おもてなしのつもりで失敗することがあります。問題は2つ。第一に「豪華なおかずの乗った冷たいご飯」を出すこと。日本でも貧しい、立場の弱い人をあらわす「冷や飯食い」ということばがありますね。インディカ米はジャポニカ米と比べて冷えたときの味が落ちることもあり、おもてなしには温かいご飯を出すのが礼儀でしょう。第二は、このごろ少なくなりましたが、弁当にお箸だけそえてれんげ(スプーン)を出さないこと。べトナム人の食事風景を観察すればわかることですが、「お箸だけで食事をする」日本人とちがって、ベトナム人(や中国人、韓国人)は、箸とさじ(スプーン、れんげ)を両方使って食事をする人々ですね。

2.ベトナム人は「シンチャオ」という挨拶をするか?

 ベトナムと少し付き合えば覚えるのは「チャオchào」、ていねいにいえば「シンチャオxin chào」という挨拶ですね。チャオは元来「挨拶する」という意味をもち、一日中、会った時も分かれる時も使える便利なベトナム語ですね。ただ、「シンチャオ」と言っているうちは、いくらほかのベトナム語を覚えて使っても、「ああ、この人は外国人だ」と思われ続けることは、皆さんご存じでしょうか。なぜならべトナム語は、親しみや相手への尊敬などをあらわすために、呼びかけ・疑問文やその答えの文で、主語や補語(目的語)以外にも、文末などに二人称代名詞にあたることばを多用するからです。「シンチャオ」ではなく、若い女性相手なら「チャオ・チChào chị」、年配の男性相手なら「チャオ・バックChào bác」、それ以外の構文でも、値段を若者に尋ねるなら「バオニウティエン、エムBao nhiêu tiền em?」など、そういう文がたくさんあります。

 ところで、外語大などでベトナム語を専攻すれば、いやでも覚えさせられるのですが、ベトナムに赴任したついでに初歩のベトナム語だけ習う、というような場合には気づかずに終わりかねないのが、ベトナム語の人称代名詞の問題です。ベトナム語には、英語のI, you, he, sheのような、年齢や相互関係、場面に関係なく使える絶対的な人称代名詞は本来存在しません(一人称単数のtôiも、いつでも使うわけではありません。元は「僕」の意味ですが、現代ベトナム語では目下・年下の人間に対して自分を呼ぶ際に使うものでしょう)。

 ベトナム語はその代わりに、「家族・親族呼称(中国語に近い)を外部の人と話す際にも応用する」「そこでは相手との年齢、相互関係(親しさの度合いや社会的地位の上下)によって適当な呼称を選ぶ」という原則をもっています。日本語でも大人の男性と小さい男の子の会話で「おじさん(おじちゃん)」と「ボク」は、「ボク、どうしたの? だいじょうぶ? おじちゃんが見てあげよう」「うん、おじちゃん、ありがとう。ボク、だいじょうぶだよ」というように、大人と子どもの両方から、一人称・二人称の両方で使われますね(「あのおじちゃん」など指示語を付ければ三人称にもなる)。あれです。それが、独立した代名詞として使われる場合だけでなく、「ミスターだれそれ」「マダムだれそれ」など固有名詞と結合した呼称の場合にも適用されます。

 問題はその家族・親族呼称が日本語より複雑なことですね。基本は年少(下の世代)から順に、

  Cháu(元の意味は「孫」)—em(「弟、妹」)–(本人)–anh(兄), chị(姉)–chú(親より年下の父方オジ), cô(同じく父方オバ)—(bố父, mẹ母)–bác(親より年上の父方オジ・オバ)—ông bà(祖父母)–cụ(曾祖父母) 

などとなります(実際の家族・親族呼称は母方親族なども含むのでもう一回り複雑です)。世代によって男女の区別をするものとしないものがある点も微妙ですね。

 これを応用してみましょう。たとえば自分が男子大学生だったら、高校生に向かっては自分をanh、相手をem(男女同じ)と呼びます。40歳前後の男女に対しては自分をem、相手をchú かcôと呼ぶでしょう。相手が定年退職後の筆者であれば自分はcháu、相手はbácです。それぞれ呼ばれた側は同じ呼称を、一人称・二人称を逆にして使います(私は自分をbác、相手をcháuと呼ぶ)。自分を呼ぶ際には固有名詞を後ろに付けることはあまりしませんが、相手を呼ぶ際にはcô Thanh(親より若い女性のタインさん), bác Momoki(親より年上のモモキさん)など、固有名詞も付けてよく使います。

 *もうおわかりですね。ベトナム人が女性にも平気で年齢を尋ねるのは、相手の年齢を知らずに不適切な家族・親族呼称を使ったら失礼だからです。

ところがややこしいのは、相手との親しさや相互の社会的地位によって、選ばれる家族・親族呼称が変化することです。普通は他人には使わないbố, mẹが親しみを込めて「お父ちゃん」「お母ちゃん」のように使われたり、私が日本の教授だからということで尊敬を込めて、明らかに自分の子どもより年上のベトナム人からもbácと呼ばれることがあります。年配の男女を呼ぶông, bàには、社会的に尊重するニュアンス(イコールよそよそしい関係も示す)と、近い人をオジオバの呼称でなく親しみを込めて呼ぶニュアンスと両方があるでしょう。男女のカップルだとどちらが年上でも男性がanh、女性がemになるというジェンダー平等の観点からは問題にされそうな習慣など、慣用表現を含めていろいろ覚えることがあり、それらを使いこなしてはじめてベトナム社会で「お客さん」扱いでなく「仲間」として認められる、というものでしょう。

その他、家族・親族呼称でない代名詞としては、mình(自分)があります。これは「自分で、自分を」のときは普通の表現ですが、代名詞ではぞんざいな表現に使うもので、「オレ」のような意味で一人称に使うほか、二人称代名詞でも使えます。その場合、関西弁の「自分、どう思う?」のような「自分」の用法と似ていると思います。なお日本だと「佐藤課長」「山田教授」など職業・肩書きで人を呼ぶことがとても多いですね。ベトナムでも公式の場は肩書き社会で、博士号と教授称号をもった学者なら「giáo sư tiến sĩ だれそれ」と呼びます。口語でもông đại sứ(大使さん)など家族・親族呼称と肩書き組み合わせて人を呼ぶことがあります。そうそう、公式の場では偉いお役人や共産党幹部を呼ぶのに、「同志đồng chí」を今でも使いますね(肩書きや名前の前に付ける)。

*学校(師弟関係)にはthầy giáo(男性教師), cô giáo(女性教師)という特別な単語がありますね。固有名詞がつくとthầy Minh (ミン先生), cô Suzuki‘(鈴木先生)などとなります。教員と学生・生徒のやりとりでは、先生はthầy やcô、学生・生徒はemになります。ただし教員が自分をtôiと呼ぶこと、学生・生徒を尊重してbạn(友達の意味)と呼ぶこともよくあります。これに対し仏僧と信徒の関係では、僧侶はthầy または côと呼ばれるのに対し、信者は自分をcon(両親に対する子どもの意味)と呼びます。

 

これはかなわん、こんな複雑な言語を勉強するのは無理だからあきらめよう、と思う日本人が出てくるのも当然でしょう。しかしそういうみなさんには、漢字(本来の音読みだけでなく訓読みなどという始末におえないものがある)とカタカナ・ひらがなを覚えて使いこなすのに四苦八苦しているベトナム人を、「日本語の進歩が遅い」とけなす資格はないということになりますよね。さあ、日越交流は現在の水準で十分だ、これ以上深める必要はないと考えない場合、お互いどうしたらいいでしょうか。本スクエアでは今後も、そういう問題を議論していきたいと願っています。ときどき本アーカイブズとこのスクエアをご覧いただければ幸いです。