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コラム2:深めるベトナム2

コラム:深めるベトナム 第2回

桃木至朗(日越大学教員・JICA専門家)

☆以下はすべて筆者独自の見解であり、日越大学を代表するものではありません。

地理や経済の話はいくらでもあるのですが、2回目は言語について書きましょう。日本人の苦手分野であるうえに、ベトナム語は実際に難しいですね。実はベトナム人にとっての外国語・日本語学習にも同じ問題があるので、日本人とベトナム人の正確な意思疎通は簡単ではありません。つぎのキーワードについて基礎知識のあるかたは、話が頭に入りやすいと思います。

キーワード:音節、声調、漢字文化、日本語教育、英会話・英作文

1.ベトナム語とその発音

ベトナム語(多数民族であるキン族の言語。公用語としてはtiếng Việt Namと呼ぶが、言語としてはtiếng Việtと呼ぶのが普通)は、語形変化のない「孤立語」で、それぞれの音節(母音の抑揚つまり声調がある)がひとつの単語として意味をもつ、「単音節声調言語」です。

キン族のふるさとであり首都ハノイのある北部の言葉が、標準ベトナム語の基礎になっています。それは6声調(南部では5声調)があるだけでなく母音・子音やそれらを表す綴りも複雑なので、日本人は発音で苦労しますね。一方、語形変化がいっさいなく、「て」「に」「を」「は」などに当たる「文の構造を示す目印」もあまり発達していない、すべてを語順だけで表そうとするなどの特徴があるので、文法面は単純に見えます。ただし一定以上に進むと、語形変化や助詞・助動詞による意味の区別がないうえ、表現の語呂の良さが文法より優先されることもよくあるために、「ある仲間にしかわからない」表現が激増します。

  • *ベトナム語の音節は、頭子音、母音(二重母音も3種類ある)、末子音、声調からなります。もちろん頭子音や末子音をもたない音節(âmとか hà)、なかには母音+声調だけの音節(ảなど)もありますね。
  • *要注意点は綴りの規則が英語でなくフランス語などラテン系の言語に近いことで、同じ綴り字が母音や子音の組み合わせ具合によって違う発音を表すことがあります。ややこしいので全部例示はしませんが、たとえばHồ Chí Minh のChíという音節はiが主母音であるのに対して、hoa mai(テトに飾るあんずの花)のmaiという音節(iとyの書き分けの原則は十分確立していません)ではaが主母音でiは末子音と同じ働きをする「半母音」です。発音は前者が長くはっきり発音する必要があるのに対し、後者は軽く短くていいでしょう。hoa mai ではhoaのほうも、主母音はaだけでその前のoはフランス語のoiなどの発音で現れるのと同様の半母音です(iêまたはyê, uôまたはua, ươまたはưaの3種類の発音は本当の二重母音)。
  • *案外わかっていない学習者が多いのは、母音の長さです。主母音がひとつだけの音節では、短い母音ă, âの場合を別とすれば、日本語の1.5拍分かそれ以上に主母音を長く発音しないと(前後に半母音がある場合はそれより長く発音しないと)なかなか通じません(Việtなど低くおさえる声調でも、他の声調よりは短めになるものの、やはりăやâより長く発音しないとだめです)。Việt Nam のNamはナムでなく「ナーム」です。maiはマイでなく「マーイ」、hoaは「ホア」でなく「フワー」という感じでやってみてください。

2.ベトナム語と文字の歴史

ベトナム語はもともとモン・クメール諸語の系統に属したが(カンボジアのクメール語が代表格。声調をもたない)、タイ系諸語との接触により声調が発生し、かわりに語頭・語末子音などはしだいに単純化されたといいます。その後、紀元前後からの中国の支配下で漢語・漢字文化が導入され、10世紀の独立後も、近代まで漢字文化圏の一員でありつづけたわけですが、その間に、漢字の原理を応用して漢字で書けない土着語を表記するために造られた「チューノム」(近代以前はこれを「国語」と呼んだ)も発達しました。

*チューノムには日本のカタカナと同じ「漢字にルビをふる」機能と、万葉仮名やひらがなと同じく漢文でない文章を書く機能をもっていました。造字法は、万葉仮名と同じく漢字の音だけ利用したもの(例:数の1(một)を「没」,3(ba)を「巴」と表記した)と、へんとつくりを組み合わせて新しい文字を作ってしまう(日本の「国字」に相当。例:数の5(năm)を音と意味の組み合わせで皓と表記する)の両方がありました。純粋な漢文のほかに漢字・チューノム交じり文(日本の漢字・かな交じり文と同じで、語順や文法は漢文に近いものからしだいにベトナム語に忠実なものに変化)がさかんに書かれました。また漢詩(五言、七言などが基本)とは違う「六八体」「双七六八体」など独自の韻律を持つ定型詩・韻文の創作にも応用されました。世界史の入試に名前だけよく出るチューノムですが、出題するならこのぐらいのことを理解してから出題してほしいですね。

独立後のベトナムは、識字教育を急ぐ目的もあって漢字・チューノムを廃止し、ローマ字(国語=クオックグー)に一本化しました。クオックグーはもともとキリスト教の宣教師が作ったもので、フランス領時代にしだいに普及したものです(綴りと発音の関係はフランス語式ではなくラテン語に近いことがらが多い)。クオックグーのおかげで識字率はきわめて高まったのですが、その代償として現在のベトナムは、少数の漢字・チューノム専門家を除く一般国民は漢字・チューノムを読むことができず、歴史の記録も古典文学も少数の専門家が現代ベトナム語訳したものを読むしかないという状況に陥っています(だから日本語学習の際にも漢字をひどく恐れる)。それは、民族文化の継承を難しくしているうえ、史料の原文を読んで語句の用法を確定するといった文献学・史料学の基礎をひどく傷つけました。また日本でも同じことですが、昔の知識人はだれでももっていた漢文や儒学、中国史などの素養が失われました。今でもキン族の人名は基本的に漢字由来の名前ですが、元の字を知らないための意味の誤解などが広がっています(漢字文化圏から来た人に人名・地名など漢字を教える際の間違いはとても多いし、日本人側の漢字の素養も低下しているので、ベトナム人の名前について解説したネット記事の漢字の当て方などは問題が多いです)。

結果として、たとえば前近代の漢文史料を根拠とした現代の領土領海紛争とそれに関する国際発信の場などで、ベトナムの主張の説得力がはっきり下がっています(たとえば英語でベトナム側の主張を発表する際に、そこに出てくる中国の地名や王朝名を、Bắc Kinh (北京/英語ではBeijingかPeking)、 Duong Dynasty (唐王朝/Tang Dynasty)などとベトナム読みのまま書いても世界の人々にはわからないということが、学者にも通訳にもほどんど認識されていません)。昔の漢学が中国中心の世界観とつながっていたのでそれを警戒するという気持ちもわかりますが、現在は古い中国中心主義とは違った、多様な文化の集合体としての漢字文化の研究が世界で進んでいますので、そこへの再参入を進めてほしいものです。

なお、独立や漢字廃止にともない、フランス語・漢語などを追放してベトナム語に置き換える政策がすすめられたのですが、しかし近代日本で漢語に訳された西洋の概念(物理、化学、経済、社会。。。)の多くはベトナムにも定着しており、「日本語にない中国語」の単語がけっこうあること(科挙と儒学の用語などもいろいろ残っている)を合わせて、漢字を知らないことの損失を大きくしています。他方、「なんでも英会話」の風潮は日本以上に強いですね。

日本人がベトナム語を学ぶ際にも、漢字を使って教えてくれればもっと早くわかるのに、という事柄は無数にあります(四声を身に付けておくとベトナム語の六声調の発音練習も楽になりますね)。現代中国語から入った日本語にはない単語もわかることを含めて、日本人がベトナム語を習うには、先に中国語を習っておくと便利ですね。たとえば現代ベトナム語の「パスポート」「ホテル」、キリスト教徒をそれ以外を区別して呼ぶ際の「教民」と「良民」、大学生の意味の「生員」や大卒資格の「挙人」、博士号の「進士」などみんな近世~近代の中国語ですね。ついでに、ベトナム語でなんというかわからない場合、とりあえず日本の漢語(熟語)をベトナム語読みして使うという日本人がよくいますが、「それはベトナム語では通じません」となることもありがちです。中国語を習っていると、そのへんの見分けが付きやすくなるという効果もあるように思います。とくに広東語など発音も複雑でベトナム語とも近い言語を習得していると、べトンナム語は「楽ちん」のようです。

*ドイモイ後に宗教や祖先祭祀が認められ、そのための宗教施設や先祖を祀った「祠堂」がどんどん復活しました。そこには昔あった扁額、対聯、石碑など漢字で書いたもの装飾や記録もやはりほしいということで、最初は漢字を覚えている古老が書いてしましたが、ある時期からワープロで打って印字したものが増えましたね。他方、外形はそれらと同じですが、文字はクオックグーを飾り文字のようにして書いた対聯、現代のできごとや故人の事績をクオックグーで刻んだ石碑や墓石なども増えています。みなさんも宗教施設などに行ったら調べてみましょう(日本の外語大などの学生なら、それを調べて分析したら卒業論文が書けます)。